医学教育2024,55(2): ~0 特集 インクルーシブ教育を考える 6.米国ロチェスターにおけるろう・難聴者のための 高等教育と医療人育成: インクルーシブ教育から社会還元へ 武 田   裕 子*1 皆 川   愛*2 吉 田   将 明*3 大 杉   豊*3 要旨:  本報告書は,米国ニューヨーク州ロチェスター市におけるろう・難聴学生向けの包括的教育,医療サービスと研究の先進的取り組みに焦点を当てている.特にロチェスター工科大学(RIT)及びその内部機関である国立ろう工科大学(NTID),そしてロチェスター大学(UR)で展開されている教育プログラムは,ろう・難聴者が健康科学,医療分野で専門職として活躍するための教育とキャリア支援を提供している.  これらの教育機関は,ろう・難聴者が専門知識を活かし,医療現場や科学研究の場でリーダーとして機能するための環境を整えており,彼らのニーズに積極的に応えている.また,ロチェスター大学附属病院は,ろう・難聴者の医療従事者が臨床現場で活躍できるよう,医療現場に充実した通訳支援システムを備えている.このような組織間の連携とインクルーシブな取り組みは,ろう・難聴者が社会の一員として完全に機能し,専門職としてのキャリアを築くための重要なモデルなっている. キーワード:ろう・難聴者,高等教育,医療者教育 6. Healthcare Professional Education and Development for Deaf and Hard of Hearing Individuals in Rochester, NY: Transitioning from Inclusive Higher Education to Social Contribution Yuko Takeda*1 Ai Minakawa*2 Masaaki Yoshida*3 Yutaka Osugi*3 Abstract: This article focuses on inclusive education for deaf and hard-of-hearing students in Rochester, New York, which prepares them to become healthcare professionals or researchers in health science fields. We highlight the unique programs for deaf and hard-of-hearing students to develop their careers at the Rochester Institute of Technology (RIT), the National Technical Institute for the Deaf (NTID), and the University of Rochester (UR). These universities also foster an inclusive work environment that caters to the needs of deaf and hard-of-hearing clinical professionals and faculty specialized in health research, enabling them to play leadership roles in their fields. Notably, Strong Memorial Hospital at UR supports deaf staff by providing interpreter services, allowing them to actively engage in their clinical work as professionals. Such seamless support, spanning from higher education to professional careers in Rochester, demonstrates a compelling model for enabling deaf and hard-of-hearing individuals to pursue and thrive in their chosen professions. Keywords: the deaf and hard of hearing, higher education, healthcare professionals はじめに  ニューヨーク州の学術都市ロチェスターは,全米でも有数のろうコミュニティが存在する都市として知られている.ロチェスターを中心とする大都市圏は人口が100万人を超え,その3.7%に当たる45,000人のろう者がそこで暮らしている.このコミュニティの形成には,1876年以来の伝統を有する「ロチェスターろう学校(Rochester School for the Deaf)」の存在が背景にある.さらに,ろう・難聴者(聴覚障害者)が就職できる職場も多数あるため,卒業生が地域で就職を果たしてきたという歴史がある.  1967年にはロチェスター工科大学(Rochester Institute of Technology:RIT)内に,ろう・難聴者を対象とした技術系の国立ろう工科大学(National Technical Institute for the Deaf:NTID)が設置された.ロチェスター大学(University of Rochester:UR)においても,障害の有無にかかわらず学生生活が送れるように環境が整備されている.また,大学附属病院にはろう・難聴の医療者が勤務するとともに,ろう・難聴者が受診しやすい医療環境が構築されている.こうした包括的かつ長期的な支援体制によって,ろう者にとってさらに住みやすい地域が形づくられ,ろうコミュニティ成長の要因となっている.  筆者らは,ろう・難聴者を対象にした医療人育成や患者診療においてどのような取り組みがなされているかを学ぶため,2023年8月にRIT,NTIDおよびURの視察を行った. 1.ロチェスター工科大学(RIT)と国立ろう工科大学(NTID)  RITは1829年に創立され,地域を代表する歴史ある私立工科系総合大学である.工学部や情報学部,芸術学部など8つの学部があり,NTIDはそのうちの一つに位置付けられる.RIT全体における在籍学生・院生は16,800人であり,そのうちの約1割がろう・難聴者である.  米国では,ろう・難聴者を対象にした初めての高等教育機関として1864年にギャローデット大学が設立された.連邦政府の補助金を受けて運営される私立大学である.NTIDはそれに続いて設立された,ろう・難聴者を対象とする国立の高等教育機関である.ギャローデット大学が一般教養系の大学であるのに対し,NTIDは理工系の大学として,RIT内に設置されることとなった.  NTIDでは,教員が手話言語などを用いて指導する「直接的コミュニケーションモデル」に基づいた教育,RITでは手話言語通訳や文字通訳を介して授業に参加する「間接的コミュニケーションモデル」によって教育が提供されている.さらに,RITで学ぶろう・難聴学生には,手話言語通訳者やノートテイカーの派遣を行うアクセスサービスの他,学業や就職に関する相談,個人指導,教員への啓発などを行うアカデミックサポートサービスが提供されている(図1) (図1・RITのキャンパスに貼られたポスター:サポートが必要な新入生に登録を呼びかけている).  RITならびにNTIDには,“Deaf Health Care and Biomedical Science Hub (Deaf Hub)”という組織がある.健康科学や医療領における,ろう・難聴学生および専門職への教育と研修支援や研究者や医療者のネットワーク構築などを行っている.さらに,ろう者や難聴者を対象にした健康に関する研究と臨床実践の拡充,医療サービスの充実,ひいては健康とQOLの向上を目指す多様な活動を展開している. ●医療専門職との出会いと研修プログラム(Mentor Supported Shadowing Program: MSSP)  RITおよびNTIDには,健康科学技術領域の学部があり,栄養学や運動科学,グローバル・ヘルス,生物医科学領域で学位を取得することができる.さらにDiagnostic Medical Sonography(超音波検査技師)やPhysician Assistant(フィジシアンアシスタント)など医療職を目指す学生たちもいる.MSSPでは,米国で活躍するろう・難聴医療者を登録し,その職種に関心のある学生が,その専門職のところで間近に仕事を見学する機会(shadowing)を提供するなどのサポートを行っている. ●健康科学領域の研究者を目指す学部生へのサポート(U-RISE)  ろう・難聴の学部生のなかで,生物医学や行動科学,臨床研究など健康科学領域の博士課程進学を希望する学生をサポートするプログラムがあり,NIHの助成金により運営されている.U-RISE (Undergraduate Research Training Initiative for Scientific Enhancement)と呼ばれる.このプログラムに選抜された学部生は,研究者の指導のもと,2~3年間研究活動に参加し,特に夏期休暇を利用して集中的に研究を進め,学会参加や発表の機会を得る.また,博士課程を受験するための助言を得るとともに,科学者としてのキャリアに役立つワークショップも提供される.そこでは,例えば学会の会場へのアクセスを早めに確認したり,通訳者の手配を主催者に遠慮なく依頼するための実践的な手法を学ぶことができる.これまでプログラム修了者の75%がRITやロチェスター大学(UR)の大学院に進学しているとのことである. ●博士課程進学を目指す修士課程大学院生へのサポート(Rochester Bridges to the Doctorate Program:Bridges)  生物医学や行動科学分野の研究を博士課程で行い,将来的に大学や研究所で指導的役割を担いたいと考えるろう・難聴の修士課程大学院生へのサポートを行うプログラムである.奨学金の支給および授業料の減免がなされ,進学に必要な単位取得のためのコースワークに関する助言,専門学会への参加,ピア・メンタリングの機会や研究指導が提供される. ●ろう・難聴の高校生への働きかけ(NTIDアウトリーチ・プログラム)  理工系や医療・医科学領域に進学するろう・難聴の高校生を増やすために,数学や化学実験のコンテストを主催したり,医療や工学系の体験実習プログラムを提供している. ●手話言語通訳者の育成  NTIDは,1968年に米国で初めて学士号取得可能な手話言語通訳者養成コースを設置した大学でもある.当初は,RIT内で行われる授業の手話言語通訳を担当する通訳者の養成を行っていたが,現在では,あらゆる場面に対応できる手話言語通訳者養成カリキュラムとなっている.すでに通訳技術を有する手話言語通訳者に,医療専門の通訳者となるための修士課程の教育も提供している.RITとNTIDには100名を超える手話言語通訳者がスタッフとして雇用されており,学生は実際に学内の通訳現場で実習を行いながら,実践的な通訳を学べる体制となっている.  RIT/NTIDのホームページによると,アメリカ手話言語(American Sign Language:ASL)-英語通訳者は,今後10年で18%の雇用増加が予測まれており,これは他の職業の成長率の3倍に上るとのことである.また,手話言語通訳者の年収は通常$53,000以上と紹介されている. 2.ロチェスター大学(UR)  ロチェスター大学(UR)は1850年に創設されたロチェスター市にある私立総合大学であり,NTIDから車で15分程の場所にある.学士,修士,および博士の各課程が設置されており,約1万人の学生・院生が在籍しており,全米でもトップクラスの教育・研究を行っている.メディカルセンター域内には医学部や歯学部,看護学部などの医療系学部があり,他キャンパスには工学部や経済学部,教育学部などがある.  NTIDとは異なり,政府から障害学生支援に関する大規模な資金援助は受けていない.しかし,大学として正規のカリキュラムか課外イベントかにかかわらず,キャンパスのあらゆる場面で包摂(inclusion)と参加(participation)が可能であるように保障している.それは,学生のみならず訪問者に対しても同様で,筆者らの訪問の際にも,常にASLと英語を通訳する2名が配置された. ●合理的配慮の実際  入学後,当該学生は障害学生を支援する担当部署(The office of Disability Resources)に届け出て,アクセス・コーディネーターと共に大学生活においてどのようなサポートが必要となるかを検討する.その際,障害がある学生は大学に多様性をもたらす貴重な存在であるという大学の理念が共有される.学生の障害に関する情報は学務に関する記録とは別に保存され,支援員など関係者のみが閲覧できる.学生が署名をもって同意しなければ,障害に関する情報が共有されることはない.アクセスの保障は,教室などへの物理的アクセスにとどまらず,ウェブサイトの閲覧に関するアクセスなど情報保障も含まれる.  さらに,合理的配慮を求めたいときの手続きが明示されており,インターネット経由で要望を担当部署に伝えることができる.また大学のウェブサイトには,偏見によると思われる差別的な言動を認めたときに報告する窓口が用意されている.年齢,障害,人種,性別,性自認,性的指向,性表現,国籍,民族,宗教などにおける,いかなる差別も容認しないことが大学ホームページ上に表明されている. ●大学附属病院(Strong Memorial Hospital)で働くろうの専門職  URの大学附属病院(820 床)(図2)には,ろうの専門職が72名在籍している(医師・歯科医師・Physician Assistant・看護師,他).この病院の手話言語通訳者は,患者向けとろう者向けの2チームに分かれて働いている.ろうの医療者と手話言語通訳者は同じペアになるよう組まれているので,働くうちに意思疎通が容易になるとのことである.通訳サービスの予算は,病院の中央管理となっている.  精神科の一部門であるDeaf Wellness Centerでは,ろうの患者に対してカウンセリングやセラピーを行ったり,精神科医の診察をサポートしている.1988年に開設され,所属する臨床心理士やソーシャルワーカーなどの専門スタッフは,現在,一名を除き全員がろう者である.臨床心理学で学位を取る大学院生を対象に,研修の場として1年間のインターンシップも提供している.この部門の2021年度の年間利用者は延べ3,280人であった.ろう者のメンタルヘルスを担当する部門のある医療機関は国内3カ所にとどまるとのことであった. (図2・Strong Memorial病院のWELCOMEボード:手話で「ようこそ」と表現されている) ●医学部教育  ロチェスター大学医学部は,他の米国医学部と同じく,学士入学で4年制となっている.ここでは,手話言語やろう文化を理解するための教育を行っている.まず,入学早々の1年生全員を対象に,ろう者である医師の講義とオリエンテーションの後,「Deaf Strong Hospital」というロールプレイを用いた体験実習を行っている.これは,ろう者が受付から医師役,薬剤師役として医学生に手話言語で問いかけ,学生が患者となってそれぞれのステーションを回るというものである.地元のろう者がボランティアで参加している.受付から治療薬の受け取りまで一通り体験した学生たちは,最後に振り返りのセッションに参加する.そのセッションを担当するのもろうの教員で,手話言語通訳者も配置される中で学生が学びを深めていた.  2年生には,選択授業として「Deaf Health Pathway」を提供している.これは,毎週金曜日の午後に手話言語を学ぶクラスで,病歴聴取ができるまでのスキル獲得を目標にしている.3,4年生も選択授業で,ろう者の健康に関する調査研究を行ったり,ろう者の健康を守るアドボカシーを行うというプログラムとなっている. ●ろう・難聴の高校生のための医療体験実習  医学部では,ろう・難聴の高校生のための体験実習(Health Care Career Aspiration Program: HCCAP)を提供している.縫合や超音波検査手技,救急車同乗実習,一次救命処置(Basic Life Support: BLS),ろう・難聴の医療職に直接会って仕事を見学する機会などが設けられている.この体験を通して医療職の進路を選択した高校生も生まれているとのことであった. ●National Center for Deaf Health Research(NCDHR)  ロチェスターならびに他の地域のろうコミュニティとのパートナーシップにより当事者参画型の調査研究を実施している.これまで健康調査から取り残されがちであったろう者に対して,文化的にも言語の面からも配慮された動画を用いた調査を実施して,ろう者の健康データを集積している.聴者の健康データと比較することで健康格差を明らかにし,政策提言に役立つ発信を行うとともに,ろう者の健康やウェルビーィングに寄与する働きかけを行っている. 3.NTID教員エリザベス・アイヤー先生のこと  アイヤー先生はろう者で,超音波検査技師として25 年間勤務した後,4年前からRITおよびNTIDで教鞭を執っている.健康科学プログラムを担当しているが,ご自身が超音波検査技師として病院で働いていた時の体験についてお話し下さった.  視覚によって多くの情報を得るろう者であることから,患者の表情や状態をしっかりと観察する.患者のもつ不安にも気づきやすいため,見守ってもらえていると感じた患者からよく感謝の言葉をもらったという.また,例えば,てんかん患者に対しては発作の徴候をいち早く察知でき適切に対処したため,患者にも医療スタッフにも信頼されていたとのこと.画像所見の変化など専門領域においても,その観察力は役立ったという.さらに,外来や手術室では,アイヤー先生がいたことで音声のみでのコミュニケーションに頼れなくなり,口頭指示を視覚化してダブルチェックするようになった.それが医療安全につながり,一緒に働く外科医にとても喜ばれ,さらに,多職種で連携する素地が整ったといわれていた.また,ろう者に向けたユニバーサルデザインは,障害のある人だけでなくあらゆる職員や患者にも利用しやすく,役立ったと伺った.  現在,アイヤー先生は医療を専攻する学生たちの教育に従事している.ろう・難聴の学生だけでなく,内科・産婦人科・泌尿器科領域の超音波検査について聴者の学生・研修医に対しても指導を行っている.現在,ろうの超音波検査技師は全米に7名いるとのことであった. 4.考察  ろう者が医療職として専門性を発揮するには,充実した修学環境と医療現場における支援が不可欠である.わが国においては,卒前教育における学習支援への取り組みは少しずつ進められつつある一方,多くの医療機関においてろう者への理解不足やコミュニケーションの障壁がキャリアの進展を阻害している現実がある.今回視察したRITとNTID,ロチェスター大学(UR)ならびにStrong Memorial Hospitalで行われている独自のプログラムは,インクルーシブ教育ならびに職場環境整備を推進する上で示唆に富むものであった.以下に三つの提言を行う. ⑴ろう者の高等教育の拡充と専門職・学生の活躍場所の創出  ロチェスターでは,医療専門職を輩出できる充実した学術環境のもと,Deaf HubやRochester Bridgesというプログラムの設置により,ろう者が高等教育機関で学ぶ入り口が整備され,門戸が開かれている.米国のろう者の大卒者の割合は約34%と報告されている1).一方で,わが国におけるろう学校から大学への進学率は約15%であり2),特に保健医学系を専攻する学生はそのごく一部である.2001年の絶対的欠格条項から相対的欠格条項への改正により医療系学部への進学障壁が撤廃されたにもかかわらず,医学・医療者教育におけるろう学生への就学支援の知見集積はまだ少なく3,4),ロールモデルの不在が依然として大きな課題である.これに加え,聴覚に依拠した医療技術の実施や職務内容の遂行が求められており,ろう者の医療職への進路を阻んでいる現状がある.筆者(皆川,吉田)も,医療者になるのは無理だと幾度も言われ続け,受験や入学受け入れの拒否を経験してきた.  米国には数十年にわたり専門医療分野で貢献を続けているろう医療者が存在する.彼らは臨床実践にとどまらず,Deaf BridgesやDeaf Hubのプログラムを通して医療者や研究者の育成に貢献し,National Center for Deaf Health Research(NCDHR)が主導するコミュニティ参加型研究プロジェクトにも参画している.今回の視察では,ろうの専門職がこれらの活動を通じて,ろうコミュニティのメンバーと連携し,後進の指導にも積極的に関与していることが確認できた.また,ロチェスターの高等教育機関では,学生の専門分野に応じた手話言語通訳チームの強化や,医療通訳を専攻とする手話言語に関する修士課程の設置が,ろう学生の学習環境の充実に寄与している.さらに,医療者を育成する卒前教育プログラムにろう学生が在籍し手話言語通訳を得て学ぶことで,聴学生もろう者や手話言語に接する機会となり,異文化理解の礎になっている.専門的な手話言語通訳サービスの提供にとどまらず,ろう学生と聴学生のための共同学習プログラムや,ろう学生に特化した研究や臨床の基盤を強化する教育プログラム開発が求められる. ⑵臨床実践におけるろう者の専門職としての活躍支援  臨床現場におけるろう者の専門職としての活躍を促進するためには,教育課程を修了した後に彼らが直面する課題を解決するための体系的な支援が不可欠である.日本では相対的欠格条項への改正により,ろう者および難聴者の医療分野での就労事例が増加しているものの,依然としてコミュニケーションと音声情報へのアクセスの課題に直面していることが報告されている5).この問題を解決するためには,音声情報の可視化システムの整備や,就労機関との綿密な連携と協力が求められる.  ロチェスターにおける実践は,医療分野に精通した手話言語通訳者の養成と,臨床現場での即時利用可能な通訳サービスの提供により,ろう者が医療従事者として患者に適切に対応することが可能になることを示している.これは,日本においても有効なモデルとなると考える.聴覚障害者が医療系の専門職として活躍できるよう支援するためには,専門的な手話言語通訳者の養成プログラムの導入ならびに医療従事者専用の通訳チームの存在と派遣体制の確立が必要である. ⑶高等教育機関,病院,ろうコミュニティとの連携  ろう者のニーズに応え,医療サービスの改善を図るには,医育機関や病院がろうコミュニティと緊密な連携を図ってニーズや課題を共有する必要がある.ロチェスターでは,これらの組織が協力してろう者が直面する医療上の課題を可視化し,アクセス面の問題解決を図っている.ろう者自身の経験や知見を医療者教育や医療サービスの改善に活かすことで,より包括的で質の高い医療提供が実現できるであろう.それによって,ろう者に限らず聴者も安全で安心な医療を受けることにつながる. おわりに  障害がない前提でシステムが成り立っている社会において,資源も限られるなかで真にインクルーシブな教育は理想に過ぎないと感じられるかもしれない.ジョン・キーツが提唱したネガティブ・ケイパビリティという概念は,不確実性,疑問,不確かさの中で安定を保ち,即座に解決策を求めずに状況を受け入れる能力を指す.この理論的枠組みを用いて,異言語や異文化間のコミュニケーションの複雑性とその中での教育の価値を探究すると,異なる文化や言語を持つ人々が共に働くなかで深い学びと成長の機会が生まれることに気づかされる.  音声言語を主に使用する社会で,ろう者として生きることの複雑さや,その中で生じる課題の理解を深めるためには,ネガティブ・ケイパビリティを発揮する必要がある.すなわち,聴者とろう者間のコミュニケーションのギャップをただちに埋めようとするのではなく,そのギャップの背後にあるものの理解から始めるのだ.それは,聴者が短時間で問題解決を図ろうとする姿勢,すなわち,ポジティブ・ケイパビリティの表れに挑戦するものである.問題そのものを単純化してしまうことの危険性を認識し,代わりに曖昧さや不確実性を受け入れることで,より深い理解と共感が生まれる.このネガティブ・ケイパビリティ,すなわち不確かさや未解決の状態に快適に留まる能力は,異文化間教育における重要な要素であり,インクルーシブな社会を粘り強く構築していくうえで不可欠といえる.  環境さえ整えば,ろう者は医療専門職の進路を選択し活躍できる.しかし,これまで医学・医療者教育は学修者が聴者である前提でデザインされてきた.医療機関も同様に,ろう・難聴者である医療者の存在を想定していない.ロチェスターの大学や病院では,そのような「排除されてきた人々」が教育や医療に関するデザインプロセスの初期から関ることで,より安全で安心な医療の仕組みづくりに貢献していることを目の当たりにした.ポジティブ・ケイパビリティとネガティブ・ケイパビリティの両方に立脚し,バランスを取りながら異言語や異文化理解が進み,教育や医療界にインクルーシブデザインによる変化が生まれることを期待している. 謝辞  ロチェスター視察において調査にご協力くださった,ロチェスター工科大学(RIT)及び国立ろう工科大学(NTID),そしてロチェスター大学(UR)の教職員の皆様に感謝申し上げます.  なお,本研究はJSPS科研費 JP23K24580の助成を受けたものです. 文 献 1) National Deaf Center on Postsecondary Outcome. Deaf people and educational attainment in the united states: 2019. https://nationaldeafcenter.org/wp-content/upl oads/2022/11/Deaf-People-and-Educational-Att ainment-in-the-United-States_-2019.pdf  アクセス日2024年4月1日 2) 水島結希,岩田吉生.聴覚特別支援学校(聾学校)高等部における進路指導に関する研究.障害者教育・福祉学研究 2019; 15:55-62. 3) 垰田和史,大杉 豊,河原雅浩・他.医療系大学等における聴覚障害学生への講義保障のための調査研究事業報告書,全国手話研修センター,京都,2009. https://jisls.com-sagano.com/publications/detail.html?id=309.アクセス日2024年4月1日 4) 垰田和史,北原照代,松浦博.高度聴覚障害学生への医学教育の経験と課題.医学教育2012; 43(4):299-307. 5) 栗原房江,廣田栄子.聴覚障害をもつ保健医療従事者の現状と課題.日本聴覚医学学会2012; 55(6):669-78. *1 順天堂大学大学院医学研究科医学教育学, Department of Medical Education, Juntendo University Graduate School of Medicine *2 ギャローデット大学ろう難聴児レジリエンスセンター, Deaf and Hard of Hearing Child Resilience Center, Gallaudet University *3 筑波技術大学,Tsukuba University of Technology 受付:2024年4月15日,受理:2024年4月15日