医学教育2024,55(2): ~0 特集 インクルーシブ教育を考える 【4.障害のある医療者の体験】 4-4.うつ・てんかんのある看護師 加 納   佳 代 子* 要旨:  私は看護師生活49年,てんかん当事者35年,うつ病からのリカバリー16年となる.病とともに過ごした職業生活を振りかえりたい.誰もが失敗から学ぶ権利がある.私もてんかん患者としてたくさんの失敗を重ねてきた.しかし,「発作の主体的コントロール」というストレングスを蓄積することができた.病や障害や諸事情に必要な配慮について知恵を絞り,試み,可能性に賭けていきたい. キーワード:てんかん当事者,うつからの回復,看護師,職業生活 4-4. A Nurse, Depressed and Epileptic Kayoko Kanou Abstract:  I have been a nurse for 49 years, a person living with epilepsy for 35 years, and in recovery from depression for 16 years. I wish to reflect on my professional life lived alongside my illnesses. Everyone has the right to learn from their errors. As someone with epilepsy, I have made many mistakes. However, I have managed to develop the strength of “independently controlling my seizures.” I aim to compile my insights on illnesses, disabilities, and other necessary considerations, to experiment with them, and to discover their potential. Keywords: epilepsy patient, recovery from depression, nurse, professional life はじめに 「てんかん」はてんかん症候群の総称で,100人に1人,誰にでも起こりうる病にもかかわらず,誤解や偏見が多い病の一つである.発症はこどもと高齢者に多いが,私のように中年の場合もある.多くの人が痙攣を伴う発作をてんかん発作と思っているようだが,突然の意識消失,四肢や体幹の強い突っ張り,震え,視覚・聴覚・味覚などの感覚発作,自分の意志とは関係なく動き回る発作等などに加えて様々な精神症状を伴うこともあり,実に様々である. ぼーっとしている欠神発作であれば本人は気づかないで周囲が違和感を持ち,異臭や吐き気などの感覚発作であれば周囲はわからないが本人は違和感を抱えている.発作の種類や程度は様々であっても,当事者に共通するのは「突然なんだか変」という違和感である.いったい何が起きたかはわからないが何かは起きており,周囲の怪訝なまなざしに戸惑い,奇異の目にさらされている自分を情けなく感じてしまう. てんかん発作を目撃した周囲も戸惑う.短い意識消失は人の話をきいていないように思われ誤解を生む.良かれと思っての「配慮」であっても,周囲の人々の知識不足や偏見による過剰な保護や生活の制約は人生を閉ざされたと感じ,セルフスティグマとして張りついていく.てんかん患者の8割は薬物治療や外科治療等で発作はほぼ抑えられているにもかかわらず,てんかん患者はすでに大勢医療分野で働いているにもかかわらず,大学等の専門職養成機関や臨床現場での理解は未だ不十分である. 本稿では,看護師生活49年,てんかん当事者35年,うつ病からのリカバリー16年となる職業生活を振りかえり,これからの時代を担う医療職の育成について当事者の立場から考えてみたい. 最初の発作 私は看護師長をしていた38歳の時,当直明けで一睡もせずに学会に行った日の夜,うたた寝をしている時にけいれん発作をおこし,半年後の再発作でてんかんと診断された.今から35年前のことで,海外では許可されていた抗てんかん発作薬が日本では未承認,てんかん専門医はまだ登場しておらず,世間のてんかんへの誤解や偏見は今より根強かった. 抗てんかん発作薬の副作用でイレウスになった時と,その後怠薬して全般発作くり返し起こした時に自分の勤務する外科病棟へ入院したので,私がてんかんであることは職場中が知っていた.当直免除を理解してもらうためにも,てんかんであることをできるだけ誰にも伝えるようにしていた. 私の発作は,寝入る時,起き抜け,居眠り等浅い眠りの時だけ起きるタイプで,仕事で緊張して動き回っている時や運転中にはおきない.胃部から込み上げる違和感の前兆が始まると,布団に潜りこみ,よだれや構音障害で発作があったことを知る.だから私がてんかんであることを人前で言う時にはこんな風に伝えていた.「私てんかんなんです.あ,ご心配なく,皆さんの前で倒れはしませんから.私の発作は寝入る時と起き抜けだけ.残念ながらお見せ出来ないんですよ~」.カラッと伝えるのだが,てんかんへ偏見をもつ医療者がいることは実感していたので,先制攻撃で一発かましてやるという感じだった. 脳腫瘍の疑いが否定されると,診断名は「特発性てんかん」.原因不明のてんかんにつけられた診断名で,てんかん全体の65%.「原因不明」が一人歩きすると大変な病と捉えてしまいがちだが,実際はどこにでもある並みのてんかんというわけ.「たかがテンカンにオタオタすることはない」という気持ちと,「たかがテンカンだから無視したい」気持ちが同居していた. 副作用との戦い 最初の抗てんかん発作薬で発作はおさまったものの眠気が強く,勤務中は動き廻ることで眠気を吹き飛ばしていた.勤務が終わるとドッと眠く,車中で一睡してから帰宅していた.(当時,車の運転制限はなかった.又,法改正後であっても私のような発作のタイプは医師の診断書で普通自動車免許の取得・更新は可能である).てんかんに負けない,抗てんかん発作薬に負けない,看護師として人様に負けない,世間に負けない・・.あの頃の私は,見えない何者かに「負けない」ことばかり考えていた. 1年後に抗てんかん発作薬の副作用のイレウスで入院して絶食.イレウス回復に伴い抗てんかん発作薬開始の指示があったが,医師に黙って止めてみた結果,1週間後に大きなけいれん発作を繰り返し,また入院.神様のお仕置きだと思った.病棟師長として「患者のため」といいながら,自分が患者であることを忘れて,またもやハードワークを続けていたツケだった. 別の薬に替えるためには前の薬を続けながらゆっくり増量し,次に前の薬をゆっくり減らしていく.前の薬の副作用である眠気は減っても,次の薬の副作用は歯肉炎,肝機能障害,出血班.発作がコントロール出来てくると薬の減量を訴え,試みては再発.3回目の薬に替えてからも,一定期間発作が消失すると薬の減量に挑戦し,そのたびに再発作をくり返した.死ぬまでてんかん患者でいるしかないのだとようやく腹を括ったのは,発病から20年たち,うつ病になってからだった. 発作の誘因 私のてんかん発作は,怠薬,過労,睡眠不足,アルコール,生理が重なると誘発された.生理以外はコントロールできるはずだが,職業生活を意義あるものとしたい要求や,働くなら楽しく夢中になりたい欲求と折り合いをつけるのは難しい.発作が起きるのは決まって夢中になって仕事に没頭した後や愉しい出来事に浮かれた後,ホッとして緊張感が解けた時だった.喉元過ぎると熱さを忘れ,発作が起きては後悔することを繰り返していた. しかし,このパターンが頭と体と心で理解できるようになると,誘因を避けることはできた.沢山の失敗を重ねながら,てんかんが伴走する職業生活を送ったがゆえに身に着いたストレングスといえるだろう.もっとも私の場合,こんな当たり前のことが生活習慣としてできるようになるのに時間がかかった.今では,「怠薬」「過労」「睡眠不足」「アルコール」を避けるというだけでなく,「十分休んでから働く」をモットーにしているので,発作はない. 発作とともに働き続ける 家族に発作を目撃されないよう別室に逃げ一人で睡眠したこともある.発作の後はぼーっとし,ふらつくので這って移動し,構音障害がでているのですぐにばれた.心配してくれることはありがたいが,いつもの発作にすぎないので放っておいてほしかった. 当直は免除してもらったが病棟師長は続けた.発作を繰り返した後は,頭の回転が悪くなったように感じ,すぐに言葉が出てこない.このまま師長を続けていいだろうかと逡巡したが,先輩師長は「先走るより,よっぽどまし.至らない力ながら一生懸命働いているスタッフの気持ちがわかれば十分.今くらいでちょうどいい」と言い切ってくれた. その後,本部へ転勤となった.夜勤はなかったが,海外研修の付き添いの仕事があった.海外で発作が起きた時に見せることができる英文診断書を携え,睡眠時間を確保しながら,業務は遂行でき,発作もコントロールでき,働き続けられる自信になった. 2カ所の転勤を経て転職した.民間精神科病院の看護部長になってからは,たまに発作はあるものの,楽しくのびのびと仕事をし,職場では,私がてんかんであることを職員だけでなく患者にも公言していた. しかし,病院機能評価受審準備のハードワークのなかでまたもや発作が頻発,子宮繊維症と卵巣嚢腫による腹膜炎で緊急手術,術後結核となり,抗てんかん発作薬に抗結核薬が加わった.私の発作のほとんどが自宅で寝入るときか起き抜けなので隠して出勤できたが,出勤時の様子や手が震える小発作で,観察眼のある看護師たちにはすぐに見破られた. 発作が頻発するようになり,てんかん患者のうつ病率は高いのでこのままではうつ病になると考え,早めに管理職を降りるしかないと決意した.当時ようやく登場したてんかん専門医を受診すると,すでに立派なうつ病患者であると診断された.抗てんかん発作薬を変え,抗うつ剤を開始し,仕事をセーブしてパート看護師になれば働き続けられると思い込んでいたが,そうはいかなかった.事態は私の予測をはるかに越えていた. てんかんとの付き合い方を変える てんかんであっても負けずに働き続けることにとらわれていたので,「休職」と言われた途端に愕然とし,登っていた梯子を外されたよう,地面が急に割れて谷底に落とされたようだった.職場の産業医であった副院長に,「今のあなたの仕事は休むことです.しっかりとあなたの仕事をしてください」と言われ,やっと休職に踏み切った. 部下の師長たちには,「時薬,時薬ですよ」と言われたが,申し訳なさで一杯だった.張り詰めた糸が切れ,霧のかかった脳を抱え泣き暮らし,休職1カ月は寝込んで動けなかった.しかし,ボーっとしている「時薬」と抗うつ剤が効きだし,心地良いことに精を出していると,旅ができるくらいの余裕が生まれた. 精神科患者のリカバリーを支援しているつもりが,私自身のリカバリーを模索しなければならない.生き方を変えるしかないと思えるようになった.以降,うつ病になった職員に管理職として面接する度に,「早く休む,ゆっくり休む,十分休んでから働けばいい.今のあなたは休むのが仕事」と,念仏のように繰り返し唱え伝えている. 休職期間中に私自身のリハビリテーションを求め,筑波大学大学院教育研究科カウンセリング専攻リハビリテーションコースを受験した.ホームページに「人は皆,病みながら生きている」と一言だけ書いていた精神科医を指導教官として希望した.何の面識もなかったが,この言葉は当時の私の心情そのものだった.入学してみると当の教官は脳出血で倒れ,病休中で,半年後に復職してきた.55歳の熟年大学院生の私に「失ったものを嘆くな.ないものをねだるな.ないものは人から借りろ.そして自分にあるもので惜しみなく他者を支援しろ」と繰り返し鼓舞した.ご自分へのエールでもあったのだろう.以降私は,病や障害とともに生きる当事者へのエールとして,この言葉を繰り返し送り続けている. 生き方を変えるために,まずはてんかん当事者としての責任を果たすことから始めようと,日本てんかん協会千葉県支部の世話人募集に手をあげた.「発作があったって私はてんかんに負けない」などと言って,我が身の一部を排除しない.「私はてんかん当事者だ.てんかんとは戦わない.てんかんから逃げない.看護師である前に私はてんかん当事者だ」と,繰り返し自分に言い聞かせていた.この殻を破ると,てんかんも鬱もなんだか愛おしく,「てんちゃん」「うっちゃん」と名前を付けて,セルフコントロールの相談役になってもらった. うつ病になって1年休職し,2年間の大学院生活では講師などの仕事をしながら,様々な障害者のリカバリーを学んだ.元に戻るのではない.健常者に近づくのでもない.新しい自分に生まれ変わるのだ.私のテーマは「困難な状況での体験をどのようにして有意義な経験に変化させ成長成熟していくのか」であった.それは,医療人としての成長・成熟でもあり,私自身の成長・成熟でもあった. てんかん看護学生への合理的配慮 大学教員として働いている時には,てんかんの学生によく出会った.看護師,理学療法士,作業療法士,管理栄養士,社会福祉士等を目指す1年生の合同講義「保健福祉医療論」では,「当事者からみた保健福祉医療」がテーマの授業を受け持っていた.1学年200人以上在籍しているから,どの学年にもてんかん当事者やその兄弟がいた. 授業の初めに「てんかん講談:病気だって友だち」を披露してから,てんかん当事者の立場から支援者への期待について語った.大学生活が始まった途端,睡眠不足やアルコールが引き金となり発作が再発する学生が見受けられる.多くの学生は,発作に遭遇する側なので,その時の対処法より誰でもできる態度を強調した. 講義の最後にはこう語った.「心配してくれるのはありがたいが,意識が戻った時,心配顔をみると迷惑をかけてしまったのではないかと思いがち.気がついたら,ホッとした安心顔を見せてあげて欲しい」 こどもの時からてんかんであった看護学生も入学してくるが,親によってこうも違うのかと実感した例がある.一人は,「てんかんだから看護師になることは無理」と親に反対され,押し切って入学した学生.入学時にはてんかんのことを教員たちに伝えていなかったが,いよいよ臨床実習が始まる時になると,発作が出たらどうしようと心配になり担任に相談した.担任から「加納先生はてんかんだから相談に行きなさい」と言われて訪ねてきた.頑張り屋さんが実習で裏目に出ないようにと,何よりも睡眠の確保を重視すること,実習記録のために睡眠時間を減らすことは絶対にしてはいけない,実習記録が間に合わなかったら週の途中で半日だけ休むことを提案した. もう一人の学生は入学してすぐ,ドアをオープンにしている私の研究室の前で大きな声でこうあいさつした.「初めまして,1年生の〇〇です.お母さんが,入学したら先生方にてんかんのことをお話しておくようにと言われたので,担任の◇◇先生の所に行ったら,加納先生もてんかんだから挨拶しておくように言われました.先生,よろしくお願いします」.まあ,部屋の中でお話ししましょうと招き入れたが,この清々しい出会いに私の方が感激し,こういう学生たちが入学してくる時代になったのかもしれないと嬉しかった. 親や教員に多い誤解は,実習中に患者さんを抱えていて落としてしまう危険があると考えることである.そもそも気を失って倒れる発作は少数派で,どのような発作なのかは本人に聞いてみなくてはわからない.実習中に学生一人で患者を抱えることはてんかん以外の学生であってもさせない.指導者や教員がついての実習となるのだから,通常の安全管理上の対応が出来ていれば,安全配慮は誰でも同じである.緊張しているときは発作が起きにくく,緊張感の解けた時に発作が起こりやすいことを考えれば,本人も周囲も特に注意した方が良い場面が予測できる.何より,発作の誘因を避けながら学ぶ機会を奪わないことが第一で,他の学生が実習を乗り越えるための配慮と変わりはない. だれだって諸事情を抱えている 2001年に始まったアメリカの非営利団体“ExceptionalNurse.com” は,障害のある看護学生や看護師のニーズに応える草の根の取り組みをしている.団体が発行する“I am a nurse : Color me Exceptional !”という塗り絵には,23人の障がいのある看護師が様々な医療現場で実際に働いている様子が描かれている(図1). イラストに出てくる看護師はすべて実例に基づいており,手話でnurseと現わしている人口内耳のスカイラー,ヘッドフォンと特殊な聴診器を愛用しているろう者のアリッサ,麻酔看護師として働くアスペルガーのアンナ,新生児循環器病棟で新生児を抱いている脊髄損傷のミカエラ,小児病棟で働く生まれながらに片手のないマリア,病院で看護教育を担当する二分脊椎症のテイラー,糖尿病の教育に携わる目の不自由なニコール,移植コーディネーターの車椅子のカーター,教会ナースの松葉杖のジェンマ,口元が透明なマスクをつけたフライト・ナースのホープ,赤十字で働くリウマチのソフィア,てんかんとともに育つ子供たちのサマーキャンプで活躍する看護師のホセ,喘息を持つクルーズ・シップ・ナースのスカーレット,テーマパークで働くディスクレスシアのジェイダ,等々. 看護師が働く場所の多様性と共に,病や障害を抱えながら働く看護師がいることを同時に伝えている塗り絵である.日本からも購入可能の塗り絵の収益は,米国の障害をもつ看護師・看護学生支援の団体を通して,障害を持って学ぶ看護学生の奨学金に当てられる. 揺れながら失敗しながら身につける工夫と強み 誰もが健康でありたいと願うが,病気や障害を避けらない.てんかんと共に生き,うつ病からリカバリーした私が,73歳の現在までずっと看護師として働き続けることが出来たのは,家族・友人・職場の人々の理解や配慮の賜物であったと思う.そして,病や障害とともにある方々の生き方に励まされたからである.私自身は揺れに揺れまくり,失敗をしながら病とともに生きるすべを身に着けてきたが,振り返ってみるとそれが私のストレングスになっていた. 合理的配慮は障害のある方だけに必要なのだろうか.誰でも病や障害を得る可能性はあり,誰もが諸事情を抱えている.生きていくのに必要な,ほんの少しの何らかの配慮は,誰もが「あったらいいな」と思っている配慮である.必要な時に,できる範囲のほんの少しの配慮.一時でよいのか,ずっと続くのかの違いはあるだろうが,その配慮が互いの人生を豊かにするに違いない. 「互いに持てる力を引き出し合う」「互いに自分のことを自分で決める機会を大切にしあう」「互いに支え合う」というケアの基本を支える配慮.病や障害のある方はもちろん,平然と生きているように見える人も,それぞれ生きづらさや諸事情をかかえている.誰もが互いにその人らしさを認め合いながら,互いに必要な配慮をし合えたら,どんなに生きやすい社会になるだろうかと素朴に考えている. てんかん講談とテンカン小噺チャンネル うつ病で休職中,私はてんかん患者としての生き方を変えるために,語りの表現方法として講談を習うことにした.私の経験をもとに最初に創作した講談が『てんかん・ぴあ・かうんせりんぐ』.てんかんであることを入職の時に伝えられなかったヘルパーが発作を起こして救急車で運ばれて遅刻が続くが,病院のたまり場で患者たちに話を聞いてもらい,もっとてんかんと仲良くしようかなと思い始めたという話.講談の最後の下り「なんで僕がてんかんなんだと親を恨んだ.周囲の無理解に腹が立った.不甲斐ない自分が嫌だった」に,当事者の心境を表現した.その後,てんかんに限らず慢性疾患,特に誤解を受けやすい脳の病気全般に対する啓発を込めて『病気だって友だち』と改題し,「でも,てんかんともっと仲良くなろうかなと思いはじめたタロウ君でした」と結ぶ.当事者会や学校,健康講座などで講演して各地で啓発活動を続けている.講談看護師加納塩梅として,頼まれればどこへでも行き,マクラで「私,てんかんなんですよ.」と始め,てんかん啓発の一言を添えることにしている. 大学院修了後,13年間の教員生活を経て,70歳で再び精神科医療現場へ看護部長として復帰して3年になる.ここ5,6年は小さな発作もない.ようやくてんかん当事者としての生活が確立できた.コロナ渦を機にてんかん当事者として,YouTube「加納塩梅のテンカン小噺チャンネル」を開設し,てんかん小噺やてんかんの基礎知識を動画発信して2年になる.当事者目線で,わかりやすく,講談調で愉しく伝える工夫をしながら楽しんでいる.動画のガイドブック「知識より大切なことがある スーパー指南書 てんかんと人生」を,てんかん当事者,家族,友人,同僚,学校,福祉施設,一般企業,医療従事者等の支援者に届け,これからも病や障害を抱えながら働き暮らす方たちの多様性と豊かさを伝えていきたい. まとめ てんかんとのつきあいが35年にもなると,もう人生の「相棒」である.私の願いは,てんかんは身近でありふれた病気,誰もがそう思う世の中になってほしいだけである.病や障害があろうとなかろうとその人らしく生きていくことを大事にしたいし,そのことを応援したい.誰もが失敗から学ぶ権利がある.私もてんかん患者として沢山の失敗を重ねて今に至るが,「発作の主体的なコントロール」(生田)というストレングスを蓄積することがなんとかできた. 看護師としての生き方とてんかん当事者としての生き方が網目模様のように絡まっている今,力まずに人生を楽しんでいる.医療職は人々の健康権を守る仕事だが,健康権を守る者の健康権もまた守らねばならない.病や障害,諸事情のために一時働くことが出来ない医療人への必要な配慮,不要な配慮について知恵を絞り,試み,未来の可能性に賭けていきたい. 文 献 ・ 加納佳代子.それぞれの誇り 婦長は病棟の演出家.ゆみる出版,東京,1997. ・ 加納佳代子.復刻版 ケアリングパワー それぞれの誇り てんかん患者としての私編.2022. ・ 加納塩梅.知識より大切なことがある スーパー指南書 てんかんと人生.電子書籍.2024. ・ 白井久美子編.障害のある人の欠格条項ってなんだろう?  Q&A 資格・免許をとって働き,遊ぶには.解放出版社,大阪,2023. ・ 生田陽二,青山有希.子育て経験のあるてんかん患者当事者の声の分析.てんかん研究2023; 41(1): 4-10. ・ 川端望海:障害を持つ看護学生の実習支援-アイルランドの大学の臨地実習支援ガイドより:看護教育2020; 61(3). ・ I am a nurse: Color me Exceptional!:Donna Carol Maheady APRN. Sue Nuenke. Tom Gili. ・ 加納塩梅ホームページ:https://anbai-storyteller.themedia.jp/ ・ 加納塩梅のテンカン小噺チャンネル: https://www.youtube.com/c/kanouanbai * 医療法人財団緑雲会多摩病院, 受付:2024年3月9日;受理:2024年3月10日