医学教育2024,55(2): ~0 特集 インクルーシブ教育を考える 【4.障害のある医療者の体験】 4-1.インクルーシブ教育と医学部シンドローム 福 場   将 太*1, 2, 3 要旨:  医学部におけるインクルーシブ教育の実現を阻んでいるものは何か.それは,医学生は医者になるのが当然,そして医者は五体満足であるのが当然という意識である.この意識は長きに渡って日本の医療界を支えてきた.しかし一方で医療界を閉鎖的にしてしまったことは否めず,今なお医学生たちに人間性を蝕むいくつもの症候を引き起こしている.本論ではこの症候群に着目して考察を進め,インクルーシブ教育を実現するための心理面の課題,そのための方法,実現によってもたらされるいくつもの効果についてお示しする. キーワード:医学部シンドローム,医学生は医者になる,幹細胞のように,バリアバリュー 4-1. Inclusive Education and Medical School Syndrome Shota Fukuba*1, 2, 3 Abstract:  What are the barriers that hinder inclusive education in medical schools? There is an assumption that medical students must inevitably become medical doctors and that they must be completely healthy, without any disabilities. It is true that this assumption has long sustained the medical community in Japan. However, on the flip side, these assumptions have also rendered the medical community insular, and medical students are still subjected to several syndromes that undermine their humanity. In this paper, I will examine these syndromes and discuss the psychological issues and methods to promote inclusive education. Additionally, I will explore the social effects that could result from the implementation of inclusive education within the medical community. Keywords: medical students syndrome,medical student becomes medical doctor,like a stem cell,varrier value はじめに  私は精神科医,心の病気を扱う医者である.そして私は視覚障害者,目の病気によって失明した患者でもある.すなわち支援者と当事者の二つの道を生きているわけだが,そんな自分がこの度インクルーシブ教育について筆を執らせていただく機会に恵まれた.  障害を持つ学生も支障なく共に学ぶことができる医学部教育について考えを巡らせた時,まず私の頭に浮かんだのは“医学部シンドローム”という疾患である.本論をお読みいただいている方はこの病名をご存じだろうか.おそらく100人中100人が知らないとお答えになるだろう.当然だ,私が学生時代に自らも含めた医学生に共通して多く見られる傾向を整理し,勝手にそう名付けただけのWHO非公認の疾患なのだから.ただ正式な病気ではないにせよ,その症状は確実に存在する.医学生に多く蔓延し,医者になっても慢性化しやすいこの病気の診断基準は以下である.さらりと目を通していただいてから,次章からのインクルーシブ教育の考察にお進みいただけたら有難い. ■医学部シンドロームの診断基準■ 症状① 医者になる以外の道が見えなくなる.だから自分は向いていないと思っても路線変更できない. 症状② 医者になることへの迷いや疑いを感じなくなる.だからその麻酔が切れ始めると激しい痛みに襲われる. 症状③ 医者になれば全ての問題がクリアになると勘違いしている.だから今自分の問題を解決しようとしない. 症状④ 医者は完全な存在でなければいけないと思い込んでいる.だから不完全な自分を受け入れられない. 症状⑤ 失敗は許されないと思い込んでいる.だから極端に失敗を恐れ失敗を憎む.  上記の症状①~④のうち3つ以上当てはまる,あるいは症状⑤が当てはまる医学生を医学部シンドロームと診断する. 1.五体満足の不敗神話  私が持病の網膜色素変性症を告知されたのは医学部5年の臨床実習の時のことだ.眼科で診察手技を教わる際に私の目を覗いた指導医が発見した.幼少期から夜盲があり,年々視野が狭窄していることも自覚はしていたので全くの意外ではなかったのだが,不真面目な医学生であった自分はそこからますます勉強に身が入らなくなった.視力の低下で教科書や試験問題を読むのが大変になったからというのも理由だが,最大の理由は,目が見えなくなるかもしれないのに医者を目指しても意味がないと思い込んだからだ.失明したら医者失格,業界追放,下手をすれば医師法違反で処罰されるのではと当時の自分は本気でそう思っていた.前述した医学部シンドロームの症状④が強く出ていたわけである.  どうしてこんな思い込みが生じたのか.「医療を施す者は五体満足でなければならない」という考えがこの業界には強く流布していて,医学生の自分も気付かぬうちにそれに感化されていたのだと思う.不思議な話だ.医者は医療の専門家であるから統計や疫学にも詳しい.そして医者も人間である以上,難病を患ったり障害を負ったりしたとしても確率的には何ら不自然ではない.にもかかわらず,医者は五体満足で当然と非科学的な不敗神話を信じているのだ.実際に数年前,私が腹痛で救急病院へ搬送された際,受け入れ先の医師に救急隊員が「全盲の方です.クリニックの先生です」と説明していたのだが,相手の医師は「先生じゃなくて患者でしょう.医者が目が見えないわけないじゃないですか」と返していた.2001年に医師の法律上の欠格条項が一部緩和されたとはいえ,まだまだこの不敗神話の影響は色濃く,障害を持つ医療者の存在は業界において異分子なのである.  医学部におけるインクルーシブ教育の是非が問われるのも,制度や物理的な可否を議論する以前に,「医者は五体満足が当然」→「医学部は医者になるための大学」→「医学生も五体満足が当然」という三段論法が働いている心理面の問題が大きく,障害を持つ人間が医学部に入学しようとすること自体が異端・異様に捉えられてしまっている.  この三段論法の二段目に着目してほしい.そもそも医学生は『学生』であって『生徒』ではない.教科書に示された正解をカリキュラムに沿って学ぶのが高校までの学習であり,それをするのが生徒.大学は自らの探究心によって学問を究めていくための学校であり,それをするのが学生である.しかしながら医学部は全くそうではない.隙間なく敷き詰められたカリキュラムに沿って講義を受け,実習をこなし,進級試験を受けて卒業と国家試験合格を目指す.これでは学生ではなく生徒,講義ではなく授業であり,医学部は大学でありながら実質医師養成の教習所,もっと言えば医師国家試験の予備校のようになってしまっている現状がある.  本来医者になりたいという気持ちと医学を学びたいという気持ちはイコールではない.大切な家族が難病に罹患した者がその治療についてもっと知りたい,自らが障害を負った者が将来を考えるためにその病気についてもっと知りたい,それだって医学を学びたい至極純粋な動機であるが,現在の医学部にそのような者の居場所はない.医学部はあくまで医者になる者が来る場所であって医学を学びたいだけの者は来てはいけない場所なのだ.  私も入学式の学長の挨拶を聞いて驚愕した記憶がある.「医者になる君たちは」と語りが始まったからだ.これから医学のことを学ぼうというのに医者になることが先にもう決まってしまっている.本来生き方には色々な選択肢があるのだが,何故か一本道のように信じ込まされる…医学部シンドロームの症状①である.医学生によっては「将来医者になる」という洗礼をもっともっと若い頃,幼い頃に受けている場合もある.代々医者家系の子息は,物心ついた時にはもう医学部を目指して塾に通っていたなんて者も少なくない.赤血球も白血球も血小板も元は同じ造血幹細胞,受けた因子の影響で進む道が枝分かれした結果の姿である.何にでも分化できる,何度でも自己再生できる幹細胞から造られたはずの人間が何故一つのものにしかなれなくなっているのか.私にもそんな同級生がたくさんいた.「医者になるしか道がなかった.でも本当にそうだったのかな」「俺たちはどうせ医者になるんだから」と語った彼らの顔は忘れられない.医学部シンドロームの症状②である.そしてそんな気持ちを押し殺し,とにかく医者になれたらいいんだと今をやり過ごす.症状③である.  医学生と医者が一本道で結ばれたこの現状において,障害を持つ医学生が存在してもいい,存在するのが当たり前だと医学部の意識が変わるためには,いくつもの心理的ハードルを越えなければならないだろう. 2.万が一主義  障害を持つ医療者の受け入れの話題ですぐ挙がるのが「患者に万が一があったらどうするんだ」という意見である.この『万が一主義』も業界に流布している.  「滅多にない病気だけど万が一その病気の患者の診察をすることになった場合に備えて勉強をしておこう」「万が一感染していたらいけないから念のために検査をしておこう」と,万が一主義が役立つことも多々あるのだが,逆効果で過度の失敗恐怖につながっていることも少なくない.「万が一転んだらいけないからまだ歩ける患者だけど転落防止帯で縛っておこう」「万が一戻ってこなかったらいけないから患者の外泊訓練はやめておこう」と,患者本人ではなく医療者の不安によって回復のチャンスが奪われてしまうことは多い.「命を守るため,安全を守るため」と言えば非の打ちどころのない正論のように聞こえるが,万が一主義は往々にして医療者の保身を目的としており,これは院内で患者に何かあれば全て医療者が責任を追及されてしまうという社会構造からも来ている.回復のプラスを生み出すことより,とにかく失敗のマイナスを出さないことに医療者の意識が向いてしまうのである.  さらに,この失敗回避の姿勢は医学生の頃から根強く培われている.例えば進級試験,留年しない一番の秘訣は周囲と同じ勉強をして同じ成績を取ることだ.例えば実習,無難にこなす一番の秘訣は先輩の合格レポートを参考にして同じような考察を書くことだ.スタンドプレーやチャレンジ精神は失敗のリスクがある.大学の教育がおかしいと思っても改善を求めて闘えば,大学に目を付けられて卒業させてもらえないかもしれない.そうすれば医者になれない…それなら抗うことより従おう,とにかく失敗だけはしないようにしよう.医学の探究よりも医者になることが最重要課題の現在の医学部では学生がそのようになってしまうのも仕方ない.私も医学部時代に最も感じたことは,ここは個性や人間性を育むことよりも足並みを揃えることが第一の世界なんだということ.医学部シンドロームの中核症状⑤である.  確かに患者の命に携わる仕事で失敗は許されない.だから万が一のリスクでも回避しておくのは当然の措置.ただ,それが障害を持つ医療者を排除することかと言うとそうではない.重要なのは「障害があること」と「失敗のリスクが高いこと」に因果関係があるのかをちゃんと評価することだ.  眼科医である知人から聞いた事例.目が見えない人が一人暮らしのためにアパートを借りようとしたら大家から断わられた.その理由は「火事を起こすリスクがある」「室内に段差があるから危ない」というもの.しかし実際には視覚障害者が火事を起こしやすいという統計データはなく,その人は自分が生活訓練を受けていて料理も安全にこなせること,段差の場所もしっかり記憶してむしろ歩行時の目印になることを大家に説明した.  精神科医である私が経験した事例.外来患者が買い物に出て道に迷い交番に立ち寄ったら,精神科の診察券を持っていたためにクリニックに連絡が来て,「交番で保護しているからスタッフを迎えによこしてほしい」と求められた.慣れない土地で道に迷うことは誰にでもある,その患者は問題なく一人で帰れるので道だけ教えてあげれば十分,と警察に説明した.  しかしいずれの事例でも返されたのが「でも万が一があったら困る」という言葉.こんな時に間違った思い込みを医学的論拠で修正し,できることはできる,無理なことは無理と証明してその人の生活を守るのも医者の重要な使命である.にもかかわらず,自分たちの業界においてはできるか無理かの吟味をせずに,万が一主義で門前払いにしてしまうのは本当に嘆かわしい. 3.インクルーシブな医療現場  では医学部におけるインクルーシブ教育実現の方法を考えてみる.医学部を本来の大学の在り方に戻し,医者になるかどうかは関係なく,医学を探究したい者なら誰でも来てよい場所にする…というのは一つの理想ではあるが,その大改革を起こすのは至難の業であり現実的ではない.ではせめて医学部は医者を目指す者が来る場所のままだったとしても,そこに障害を持つ者もいるのが当たり前としていくにはどうすればよいか.  それにはやはり医療現場の意識の変革が不可欠であろう.「医者にも障害を持つ者がいるのが当然」→「医学部は医者になるための場所」→「医学生にも障害を持つ者がいるのが当然」と三段論法を逆手に取る.つまりインクルーシブな医学部教育のためには,まずインクルーシブな医療現場を当たり前にしていかねばならないのだ.  五体満足の不敗神話と,万が一主義を打ち破る手段,それは実例の提示が効果的であろう.とかく前例がないと話が進まない日本社会であるが,障害を持つ医療者はすでに国内にも多く実在する.理屈抜きで彼らに会ってみればよい.  私自身,30歳でほぼ視力を失った後でもこの仕事を続けられたのは同じく視覚障害を持つ医療者の存在を知ったことが大きい.2001年の欠格条項の緩和後,全盲の状態で医師国家試験を受験し,医師免許を取得した日本の第1号は守田稔という先人だ.守田医師は医学部在学中にギランバレー症候群に罹患,全盲となっただけでなく,四肢も不自由となり車椅子生活を余儀なくされたが,今彼は医療現場で臨床医として働き続けている.そして彼が代表となって2008年に立ち上げたのが『視覚障害をもつ医療従事者の会 ゆいまーる』である.そこから日本全国にいる目の不自由な医療者が少しずつつながり,2024年2月現在で正会員・協力会員合わせて100名を超えている.私が初めてその集いに参加した時,そこには全盲や弱視の医師が何人もいた.そして医師だけでなく,看護師,理学療法士,言語聴覚士,心理士,福祉士など,様々な視覚障害を持つ医療・福祉の従事者がたくさんいたのだ.五体満足の不敗神話などそこには存在しなかった.法律で建物やルールがバリアフリーへ向かっても意識が変わらねば実情は変わらない.ゆいまーるのメンバーと同じ病院で働いているスタッフたちは,きっとそうではない病院のスタッフたちよりも意識のバリアフリー化が進んでいるに違いない.  万が一主義についても,ゆいまーるのメンバーが何か重大なミスを犯しているという話は聞かない.もちろん障害を持たない医療者と同程度のインシデントはあるだろうが,それは人間であれば当然である.重要なのは無理なことを無理にやろうとしない,自分ができるのはここまでという線引きを本人がちゃんと自覚できているかどうか,そしてそのことを周囲にちゃんと伝えられているかどうかだ.そこがしっかりできていれば,万が一のリスクは健常者でも障害者でも差はないことになる.  リスクが同じでも,できないことが多い障害者より色々できる健常者が医療を行う方が効率がよいという意見もあるだろう.そこで着目すべきは『バリアバリュー』という視点だ.バリアバリューは直訳すれば障害の価値,一見障害に思えることでも活かし方によっては価値ある力になる,失ったおかげで逆に得た力もある,という意味だ.バリアバリューを意識すれば,障害を持つ医療者はただできないことが多い存在ではなく,健常な医療者では持ち得ない力を持つ貴重な存在ということになるのだ.  例えばごく簡単な例を挙げると,精神疾患の当事者の中には繊細過ぎるがゆえに苦しんでいる者も多いが,その繊細さゆえに患者の痛みや小さな変化にも気付くことができる.失明した者が聴覚や嗅覚,触覚に優れるのも有名で,視覚を用いない診察だからこそわかる患者の所見もある.  また,障害を持つことで生じる患者との同質性もバリアバリューであろう.「車椅子の看護師さんだから相談しやすい」「先生も同じ病気だと聞いて勇気が出た」という患者の声は実際にある.医療者は患者にとって別世界の存在ではなく,自分と重ねたり参考にしたりできる同質性を持った存在であるべき,というのは精神科看護においても基本,そして基本ながら忘れ去られがちなことの一つである.障害を持った医療者の存在は同質性の重要さを,身を持って示してくれるのだ.  そして何よりのバリアバリューは,患者のアセスメントにおいて健常者では持ち得ない視点を提供してくれることだ.もちろん本来は障害があろうがなかろうが様々な角度からアセスメントできる発想力,患者の身になって考えられる想像力を医療者は備えていかねばならないのだが,経験なしに力を高めるのは簡単ではない.医療者は診断と治療の専門家で,患者は症状と生き方の専門家とするならば,障害を持つ医療者はその両面の専門性を併せ持つことができる.障害を持つ医療者だから患者のことが何でもわかるということでは決してないが,そう簡単にわかるものではないということも含めて健常な医療者よりも理解が進んでいるのは間違いない.ただ病状だけ治せばいいということではなく,患者の心や生き方にもアプローチしていかねばならないこれからの時代において,チーム医療のメンバーに障害当事者がいるのは大きな強味となるのである. 4.インクルーシブな医学部教育  では視点を医療現場から医学部教育に戻そう.インクルーシブ教育の実現のためにまず大切なのは,障害を持つ学生本人が自分にできることと無理なことをしっかり線引きし,それを大学も把握することだ.一番の天敵は思い込みである.医療業界はどうしても診断名を最初に意識する悪癖がついているが,インクルーシブ教育においては疾病性よりも事例性,一般性より個別性の方が圧倒的に重要である.例えば,同じ網膜色素変性症による失明であっても,ポジティブな者もいればネガティブな者もいる,記憶力に優れた者もいれば人見知りの者もいる,盲導犬ユーザーの者もいれば犬アレルギーの者もいる,すでに白杖歩行や音声パソコンを習得している者もいればそうではない者もいるのだ.必要な合理的配慮はそれぞれ異なる.まだ医療について知識のない段階では,自分に何ができて何が無理なのかを明確に把握できている学生も少ないだろう.大学には本人から事情を伺い,共に模索する姿勢を期待したいところである.  ただでさえ手一杯なのにそこまでして障害を持つ医学生を受け入れる価値があるか,と思われた方はこの言葉を忘れている.そう,バリアバリューだ.医学部に障害を持つ学生がいることによってどんなメリットが生じるかを考えてみればよい.  まずは医学部の雰囲気が社会一般の雰囲気に近付いていくことが期待できる.社会では障害を持つ者と持たない者が共存するのが当たり前,五体満足の者しかいないというのは不自然な世界である.また,健康や病気について学ぶ場所に障害を持つ者がいることによって,未知数の教育効果も期待できる.健常者が障害者に対して,障害者が健常者に対して,はたまたそもそもそんな区別が必要なのかということについても,座学ではなく試験対策でもなく,日常の中で自然に考えていくことができるのだ.生じる戸惑いも,トラブルも,そこで経験した感情や得た学びは全て将来患者の問題に向き合う際の確かな糧となる.  医学生は人生が一本道に見え,医者になるのが当たり前で,なれば全てが解決すると勘違いし,そのためには完全でなければならない,失敗は許されないと思い込んでしまう医学部シンドロームに罹患している.この病気を治療する方法は極めて単純,それは失敗が許される医学生のうちにしっかり挑戦の経験をしておくことに尽きる.障害を持つ者がいることによって多くの挑戦が生まれる.見解の相違でぶつかることもあるだろう,自らの無力さに打ちのめされることもあるだろうが,それでもまだプロではない医学生だからこそ,仲間の絆も作用して出せる答えがあるはずだ.これこそカリキュラム教育になってしまっている医学部において,大学の名にふさわしい学問の探究ではなかろうか.答えがないこの仕事で医師は決断を求められる.挑戦や失敗の経験がなければ決断力も育たない.障害を持つ学生の存在は医学部教育を,ひいては将来の医師の臨床能力を大きく底上げする効果が期待できるのである.  そして効果は臨床面だけではない.医学生の中には将来制度を作る立場になる者もいるだろう.障害当事者のために作られた制度なのに当事者にとっては的外れということがよくある.例えば,視覚障害者への制度なのに音声パソコンでは読み上げないPDF形式で資料が作られていたり,アクセシビリティを高めるための電子カルテなのに音声読み上げに非対応だったり.それらの齟齬の多くは悪意や怠慢ではなく無知によって生じている.学生時代に障害を持つ学友と当たり前に過ごしたことで意識のバリアフリー化が進んでいる者ならば,的外れな制度を作ってしまうこともないだろう.医学部におけるインクルーシブ教育の実現は将来の社会制度の充実にもつながるのである. まとめ  患者は千差万別で多種多様,相対する医者が足並みを揃えた一様では太刀打ちできない.障害を持つ学生の存在は,一様になりがちな医学部に多様性をもたらす.そこから医学生同士の学び合いが生じ,挑戦と失敗が経験され,大学を本来の学問探究の場に傾ける.さらに未来を歩く医師たちの技術を底上げし,本当に役立つ社会制度の考案にもつながる.そんないくつものバリアバリューを秘めていることを忘れてはならない.  最後になるが,今回私が書いたことは特段画期的でも漸進的でもない.学生時代から学友とはこんな話をしていたし,今でも医学部教育に携わっておられる方と話をすれば同種の意見はたくさん挙がる.ただわかっていてもなかなか変えることができないのが,この旧態依然とした業界.そうやって頑なに貫いてきたからこそのメリットも多くあることは否定できず,医学部シンドロームは言わばその副作用だったのだろう.  しかし医学は進歩していかねばならない.そして進歩には変化が不可欠.インクルーシブ教育の導入はここから先の医学の進歩に必要な過程なのである. *1 医療法人風のすずらん会(精神科医),Medical Corporation, Kaze-No-Suzuran-Kai, psychiatrist *2 視覚障害をもつ医療従事者の会ゆいまーる(幹事),The Association of Medical Professionals with Visual Impairment, Yuima-ru, secretary *3 公益社団法人NEXT VISION(理事),NEXT VISION, director 受付:2024年3月18日,受理:2024年3月21日